2012/02
異色の研究者、エドワード・モース博士君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人14]


大森貝塚を訪ねる
 JR大森駅に行くと、ホームに「日本考古学発祥の地」の石柱が建っている。
 大森駅から大井町駅に向かって線路沿いの道を歩くと、NTTビルの裏側に「大森貝墟」碑がある。
 今は有名になったが、二つの貝塚碑の一つである。更に大井町方向に進むと、大森貝塚遺跡公園があり、「大森貝塚」碑がある。公園には貝塚の説明とモースの胸像が有る。大森貝塚碑の場所は品川区大井町であり、大森貝墟碑の場所は大田区大森である。本家争いには品川区に分があるが、今更大井町遺跡に変わることはあり得ない。
 もう一つ、モースの足跡を訪ねる原点は江ノ島である。ここにモースが貝の採集をした臨海実験所の碑が建っている。島のボランティアガイドの方によると、島の海岸が埋め立てられているので、臨海試験場のあった場所は島を巡る道路の内側になると話してくれた。
『横浜に上陸して数日後、初めて東京に行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを進行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれは本当の貝虚であると知った。・・・』とモースは日本滞在日記に記している。来日したモース博士が横浜から新橋へ向かう汽車の車窓から、大森貝塚を発見したときの状景で、プロの眼の鋭さに驚かされる。


自然観察者モース
 エドワード・シルベスター・モース(1838−1925)はアメリカ大西洋岸メーン州ポートランドの生まれで、学校の授業より海岸で貝類の採集をする方が好きな子供であった。学校は何度も退学となり、高等学校や大学でも満足な学校教育は受けていないと云われている。ポートランド博物学会に入会し、ボストン博物学協会に書記として採用され、同好の士の間で彼の集めた貝のコレクションは有名となる。
 動物学の第一人者であるハーバード大学アガシー教授に紹介されて、1859年に学生助手として採用された。彼はアガシー教授に傾倒し、博物学、地質学の講義を聴講した。当時、生物学の分野ではダーウインの進化論が注目されていたが、カルビン派プロテスタントのアガシー教授は進化論に反対の立場であった。アガシー教授はモースに対しシャミセンガイの研究を勧めた。腕足類のシャミセンガイは4億年前の化石と現在とで変化がないとされていた。
 モースは1861年にエセックス研究所の博物館部門の研究員となり、更に10年後の1871年にはボーデン大学動物学、生理学教授に採用されて腕足類の研究を進めた。彼は次第に進化論の立場に立つようになってアガシー教授から離れていき、腕足類がアメリカに比べて日本に多く生息していると知り、旅行費用を借金して研究のために日本にやってきた。


東京大学動物学教授
 彼は文部省顧問のダビット・マレーに腕足類の研究支援を依頼し、江ノ島海岸の漁師小屋を借りて貝類の採集をすることが決まった。これが江ノ島仮設臨海実験所で、後の帝国大学臨海実験所、東京大学理学部三崎臨海実験所の前身である。
 当時、東京大学理学部生物学科は矢田部良吉教授が植物学を担当していたが、動物学教授は空席で適当な人を選考中であったことから、モースは東京大学での講演を契機に2年契約で動物学教授を依頼された。彼は貝の研究のため来日したのであり返事を保留したが、年報5000ドルの条件で教授職を受け入れることした。変わり種の「お雇い外国人教師」である。
 モースについてのエピソードは沢山ある。
 *アガシー教授の教え「自然に学び、書物に学ぶな」に忠実で、自然観察に熱心であった。
 *非常な雄弁家であった。東京大学の加藤弘之総長はモースと話していると自然に相手のペースに乗せられてしまい、大森貝塚の論文発表も大学の費用でやらされたと云う。大隈重信公は大切にしていた陶器コレクションをモースに寄贈させられてしまったと云う。
 *スケッチが上手で学生たちに人気があった。モースは貝など採集したコレクションをスケッチし、さらに寸法計測して図版化している。
 *両手で別々の絵を描くことができ、片手で絵を描き他の手で字を書くなど、同時に両手書きが出来る特殊な才能があった。
 *ひと時も静かにしていることが無いので、同僚から「生きたダイナモ(発電機)」と云われていた。
 1877年(明治10年)5月に来日したモースは、9月半ばに漸く貝塚の発掘調査を始めた。最初は表面から土器、骨器、獣骨、貝類などを採取したが、その後、人夫を使用して本格的な発掘調査をした。松村任三助手(後の植物学教授)や学生たちが加わった。
 大森貝塚の発掘調査報告は東京大学理学部紀要として発表され、「大森貝墟編」として英文・和文で発表されている。専門的なことは解らないが、大森貝塚の特徴は、土器が多いこと、石器が非常に少ないこと、勾玉などの装身具が少ないこと、獣骨に交る人骨に傷跡があり食人習慣があったことなどが指摘されている。大森貝塚は年代的に古いので、アイヌ人以前のプレ・アイヌ人種が住んでいたとの人種論争を引き起こしている。このようなことから、大森貝塚は日本の考古学発祥の地とされている。


帰国後のモース
 アメリカに帰ったモースは自ら設立に関わったピーボディー科学アカデミー博物館の館長を36年間務めた。彼は日本文化の理解者であり、紹介者でもあって、博物館に展示する品を求めて再度日本を訪問している。日本滞在中の日記をもとにして書いた「日本 その日その日」(東洋文庫)や「日本のすまい、内と外」(鹿島出版会)などの著作がある。研究分野も専門の動物学以外では、考古学、人類学、民族学、建築、陶磁器、絵画、古銭、天文学など多岐に亘っている。
 モースを見ていると、我が国でも南方熊楠や牧野富太郎のように、独学で自然観察と研究を進めた国際的な動物学者、植物学者がいることが想起される。 


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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